余は本日も満足じゃ

よこはま四十路ゲイの、しがないライフヒストリー。

0722 つれづれ② シャイニーについて

最近はもうあんまり聞かなくなりましたけど、おゲイの世界では「シャイニー」って言葉がいっとき流行りました。

もちろん、「ぼくはシャイニーなんです★」って真顔で自己規定する人も皆無ではなかったでしょうけど、スノッブな場でキラキラする様子を悪びれずにひけらかす誰それのことを揶揄するときに「あいつってシャイニーだよねー(嗤)」と使うか、スノッブだとみなされる場に参加している自分(外資勤務タワマン在住のよく知らない知人の知人主催のホムパにうっかりお呼ばれしたときとか)を、本当はそんな席にはそぐわないケド「自分、今日はシャイニーなホムパで場違い感はんぱなくなーい!?」的に自虐的な注釈つきで公開することで、ものすごく遠回しに用意周到に承認欲求を満たしたいときに使う便利ワードのように解釈しておりました。

シャイニーには、原則として複数人が集うある種の「場」があって、それがタワマンのリビングならシャイニーで、木造アパートで卓袱台を囲んでいたら非シャイニーということになるんだけども、結局のところ構成員にビジュアルと経済力がともなわないとどんなオシャレ空間もときとして非シャイニー。ビジュアル絶対主義のおゲイ業界の怖さ、恐ろしさを知るにつれ、わたしたち平凡な顔面偏差値の低いゲイは、リアルシャイニーを揶揄する元気も失い、他人同士の社交の場がシャイニーであるかどうかにいちいち心を乱されることから距離を置いていったものでした。

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(ある日のシャイニーな我が家の食卓)

 

そんなわけで(どんなわけだろう)、2019年のいまとなっては、いわゆるシャイニーバブルは(少なくとも下流ゲイの間では)ハジけてしまって、わたしたちはいたずらに、豊かな手料理とレアなワインとバルコニーからの夜景が素敵なイケメンばかりが集うインスタ写真に嫉妬心を掻き立てられることは減っただろうと思います。

けれども、

わたしは40年以上生きてきたので知っています。

外見重視の時代のあとに、少し遅れて走ってやってくるのは、いつだって「内面重視」という悪魔。お金と肩書きと見た目の力で勝ち得たシャイニーは滅びても、強い向上心、前向きな好奇心、クリエイティブな感性、日常生活を自分で工夫する精神性みたいなものが、今以上にチヤホヤされることでしょう。

映えスポットの巡礼や流行り物のハンティングみたいな、受動的なシャイニーはもう古い。話題の映画を観るよりも、自分で動画を撮るほうがシャイン。グルメスポットをウロウロするより、節約レシピを考えるほうがシャイン。それがどれだけ些細なことだって、何かをつくって発信するほうがシャイン。

わたしたち、毎日起きて仕事して呼吸してるだけではシャイニーでなくて、そして何かを「消費」しているだけではきっとダサくって、究極のシャイニーは手作りの暖炉に自分で割った薪をくべることになる時代がくるんです。

 

そして、いずれにしたって顔面偏差値は基準をクリアしていないと、シャイニーの土俵に上がれないことは変わらない。

 

こわいですねー。ほんとにこわい。

 

ていうか、結論無しで書きはじめたのに結論がない記事もあれかなと思って結論らしい結論を書こうとして結局よくわからない感じになりました、

 

こわいですねー、ほんとにこわい!!